こんにちは、ゆっくり歴史戦記【まこえもん】chのまこえもんです。
本日、新しい動画を投稿しました。 今回のテーマは、戦国時代きってのトリックスター「松永久秀」です。
【ゆっくり解説】英雄か、狂人か。戦国の常識をすべて破壊した松永久秀のワールド
「主君殺し」「将軍殺し」「大仏焼き討ち」の三悪事を働き、最後は名器「平蜘蛛(ひらぐも)」と一緒に爆死した……。 そんな「極悪人」のイメージが強い久秀ですが、動画では彼が実は「超有能な実務家」であり、信長も認める教養人だったという真実を解説しました。
しかし! このおじさん、掘れば掘るほど面白エピソードが出てくるんです。 動画の尺(10分)では到底語りきれなかった、久秀のマニアックすぎる「伝説」を、このブログでこっそり紹介します。
1. 日本初の「クリスマス休戦」をやった男

第一次世界大戦で、敵対する軍同士がクリスマスの一日だけ休戦し、サッカーに興じたという「クリスマス休戦」は有名な話ですが、実は日本でも似たようなことが起きていました。
しかも、やったのはあの松永久秀です。
永禄9年(1566年)とも言われていますが、久秀がライバルである「三好三人衆」と大阪の堺付近で戦っていた時のこと。 当時、堺にはキリスト教の宣教師がおり、両軍の兵士の中にもキリシタンが数多くいました。
そこでクリスマスの日、宣教師が「今日は主イエスの誕生日だから、ミサ(礼拝)をやらせてくれ」と頼んだところ、なんと両軍ともこれを承諾。 さっきまで殺し合っていた敵同士が、この日だけは武器を置いて、一緒に賛美歌を歌い、料理を食べたという記録が残っています。
久秀自身はキリスト教徒ではありませんでしたが、「新しい文化」に対する理解が深く、柔軟な頭を持っていたことが分かります。 (あるいは、単に彼もパーティーが好きだったのかもしれませんが…笑)
2. 70歳でも現役?「夜の健康法」の研究家

動画の中で、信長に「房中術(ぼうちゅうじゅつ)」つまり「男女の営みの健康法」を教えていたとさらっと触れましたが、実はこれ、もっと深い話があります。
久秀は、当時の名医である曲直瀬道三(まなせ・どうさん)から、最新医学に基づいた「性科学」の手ほどきを受けていました。 『黄素妙論(こうそみょうろん)』という医学書を伝授され、自らも実践していたと言われています。
戦国時代において、健康で長生きすることは最強の武器です。 彼が晩年(推定60代後半〜70歳近く)になっても、信長相手に謀反を起こしたり、戦場を走り回れたりしたのは、このあくなき「生命力への執着」と、医学的な裏付けがあったからかもしれません。
ただのスケベおやじではなく、大真面目に「人間の活力」を研究していたわけです。
3. 城作りの天才!「天守閣」のルーツは彼にある?

動画で紹介した久秀の居城「多聞山城(たもんやまじょう)」。 実はこれ、日本の城の歴史を変えたとんでもないオーパーツなんです。
当時の城といえば「土の要塞」が基本でしたが、久秀はここに「白漆喰(しろしっくい)の壁」や「瓦屋根」を使い、さらに四階建ての「櫓(やぐら)」を建てました。 これが、後の安土城や姫路城にある「天守閣」のルーツになったと言われています。
当時、日本を訪れていた宣教師ルイス・フロイスも、「世界中のどこよりも白くて美しい、天国のような城だ」と絶賛しています。
残念ながら信長によって徹底的に破壊され、今は跡形もありませんが、もし残っていれば国宝級の遺産になっていたことでしょう。 破壊した信長自身が、そのアイデアをパクって安土城を作ったのですから、久秀のセンスがいかに最先端だったかが分かります。
歴史の「悪役」こそ魅力的

こうして見ると、松永久秀という人物は「悪党」という枠には収まりきらない、とてつもないエネルギーを持った巨人だったことが分かります。
常識に囚われず、新しいもの(キリスト教、医学、城郭建築)を次々と取り入れる。 そのアグレッシブな生き様こそが、現代の私たちをも惹きつける「松永ワールド」の正体なのかもしれません。
動画では、そんな彼の人生を「爆発」というキーワードでまとめてみました。 まだご覧になっていない方は、ぜひチェックしてみてください!
それでは、また次回の動画でお会いしましょう。
まこえもん
