こんにちは、ゆっくり歴史戦記【まこえもん】chのまこえもんです。
先日、約3年ぶりとなる動画『【生存率5%】8万の大軍にたった1500人で突撃!?島津の退き口が狂気すぎる…』を投稿しました。
見てくださった方、本当にありがとうございます! まだの方は、まずはこちらからご覧ください。
正直、この「島津の退き口」は語りたいことが多すぎて、動画の尺である10分弱に収めるのが本当に大変でした。
泣く泣くカットしたエピソードの中に、どうしても語っておきたい激熱な話があります。 今回はこのブログで、動画の補足解説をしていこうと思います。
1. 影武者になった僧侶「長寿院盛淳」の壮絶な最期

動画の中で、島津義弘の身代わり(影武者)となって敵陣に突っ込んだ家臣の話をしました。
その一人が、長寿院盛淳(ちょうじゅいん・もりあつ)という人物です。
名前に「院」がついている通り、彼は武将でありながら、義弘の側近として仕えていた僧侶でもありました。
撤退戦の最中、彼は義弘にこう言います。
「殿は、兵を率いて薩摩へお帰りください。その御命、国家(薩摩)のために惜しんでくだされ!」
そして彼は、義弘が着ていた陣羽織を譲り受け、自らが義弘になりすましてその場に踏みとどまりました。
ここからが、動画ではカットした話です。
敵を欺くための「最期の嘘」
迫りくる徳川軍に対し、彼は腹を十文字に切り裂き、最期にこう叫んだと言われています。
「我こそは島津義弘なり! 我が首を取って功名とせよ!!」
ただ死ぬのではなく、俺が本物だぞ!とあえて名乗ることで、敵の主力を自分に引きつけようとしました。 義弘が逃げる時間を、1秒でも長く稼ごうとしたのです。
敵兵も、あまりの気迫と立派な最期に、しばらくの間これが本物の義弘だと信じて疑わなかったとか。
僧侶がここまで狂気的な忠義を見せる。 薩摩という国の「教育」の凄まじさが分かります。
2. 生還後の「堺」での大騒動

もう一つ、動画に入れられなかったのが、逃げ延びた後の話です。
敵中突破に成功し、伊勢街道を抜けた島津隊。 なんとか大阪の「堺(さかい)」という港町にたどり着くのですが、ここで最大のピンチが訪れます。
それは、九州へ帰るための「船がない」ことでした。
負け戦の逃亡兵に協力してくれる商人は、なかなかいません。 しかも、周りは徳川に味方する敵だらけです。
ここで島津隊はどうしたか?
なんと、「金はあるだけ払う! だから船を出せ! 出さぬなら……分かるな?」という、ほぼ脅迫に近い形で船を調達したという逸話が残っています。
ボロボロの鎧姿で、目は血走った薩摩武士たちに囲まれた商人の恐怖を想像すると……別の意味で震えますね。 (※諸説あり、商人が協力してくれたという話もありますが、極限状態だったことは間違いありません)
3. 歴史は「敗者」の物語こそ面白い

今回の動画を作っていて改めて思いました。
歴史の教科書では勝者である徳川家康が主役になりがちです。 しかし、敗者がどう生き残り、どう意地を見せたかにこそ、人間ドラマの真髄がある気がします。
このブログでは、こんな感じで「動画では語りきれなかった裏話」や「歴史の余談」をゆるく書き残していこうと思います。
動画の補足、面白かったよ!という方は、ぜひYouTubeの方にもコメントいただけると嬉しいです。
それでは、また次回の動画でお会いしましょう。
まこえもん
