2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公、小栗忠順。
幕末の江戸幕府で勘定奉行などの要職を務め、横須賀製鉄所の建設を推進した人物として知られています。
しかし、1868年に幕府が崩壊すると、小栗は新政府側に捕らえられ、42歳で処刑されました。
では、小栗忠順が処刑された場所は現在のどこなのでしょうか?
また、処刑場所と墓の所在地は同じなのでしょうか。
結論から言うと、小栗忠順の処刑場所は群馬県高崎市倉渕町水沼の水沼河原、墓は倉渕町権田の東善寺にあります。
しかも東善寺には、境内の供養墓と裏山の本墓という、区別して理解したい二つの墓所があります。
今回は高崎市の公式文化財資料をもとに、処刑場所、墓、隠棲した屋敷跡の違いを詳しく解説します。
小栗忠順の処刑場所はどこ?現在の高崎市倉渕町水沼
小栗忠順が処刑されたのは、現在の群馬県高崎市倉渕町水沼にある水沼河原です。
高崎市の公式文化財情報によると、慶応4年(1868年)閏4月5日、小栗は家臣3人とともに捕縛されました。
そして翌日の閏4月6日、水沼河原で斬首されています。
このとき小栗は42歳でした。
現在、この場所は高崎市指定史跡「小栗上野介忠順終焉の地」として保存されています。
大切なのは、小栗が処刑された場所を「東善寺」と勘違いしないことです。
東善寺は小栗の墓がある寺院であり、処刑が行われた場所とは異なります。
現在の史跡については、高崎市公式「小栗上野介忠順終焉の地」で、所在地と歴史を確認できます。
小栗忠順が斬首されたのは水沼河原。東善寺は処刑場所ではなく、墓がある寺院です。
水沼河原には現在も慰霊碑が残っている
処刑から長い年月が経った現在、水沼河原には小栗の最期を伝える慰霊碑があります。
高崎市によると、この碑は1932年(昭和7年)に地元の有志らによって建立されました。
碑には、小栗が罪なくしてこの場所で斬られたという趣旨の言葉が刻まれています。
この碑文は、後世の人々が小栗の処刑をどのように受け止めたかを物語っています。
ただし、碑が建立されたのは処刑から64年後です。
碑文は後世の顕彰の言葉であり、1868年当時の司法判断を直接示した史料ではありません。
小栗忠順はなぜ処刑された?
高崎市の文化財情報では、小栗と家臣らが捕縛後、取り調べもなく翌日処刑されたと説明されています。
また、高崎市の墓に関する資料には、小栗に「反逆の企て」があるとされた経緯が記されています。
しかし、反逆を疑われたことと、実際に反乱を計画していたことが証明されたかどうかは別問題です。
小栗は江戸幕府の重要な役職を経験した人物でした。幕府崩壊後、新政府側から警戒される立場にあったことは、その最期を理解する重要な背景です。
一方、小栗がどのような反乱を実行しようとしていたのかを、確定した事実として語ることはできません。
処刑の理由や小栗の生涯については、2027年大河『逆賊の幕臣』の予習にもつながるテーマです。
歴史note「まこえもん」では、小栗忠順が横須賀製鉄所の建設に関わりながら、なぜ処刑されたのかを人物の生涯から詳しく解説しています。

小栗忠順が処刑された水沼河原を象徴した歴史的想像画像。実際の現地写真ではありません。
小栗忠順の墓はどこ?東善寺の所在地
小栗忠順の墓があるのは、群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺です。
所在地は次のとおりです。
高崎市の公式観光案内によると、東善寺境内には小栗父子と家臣らの供養墓があり、裏山には小栗忠順の本墓があります。
つまり、東善寺に到着して最初に目にする墓と、本墓は区別して理解する必要があります。
この点は、高崎市公式「小栗上野介の関連史跡」でも説明されています。
東善寺の境内にある墓は何?
東善寺の境内には、小栗忠順のほか、養嗣子の小栗又一や、家臣らを供養する墓が並んでいます。
小栗本人だけでなく、一族や家臣たちの悲劇も伝える場所です。
高崎市の文化財情報には、小栗父子の墓が東善寺境内にあることが明記されています。
裏山にある「本墓」とは?
さらに東善寺の裏山には、小栗忠順の本墓があります。
ここが重要なポイントです。
「東善寺に小栗忠順の墓がある」という説明は正しいものの、境内の供養墓だけでなく、裏山の本墓も存在します。
そのため、現地を訪ねる人や歴史を調べる人は、両者を混同しないことが大切です。
本墓までの道の状態や見学可能な範囲は変わることがあるため、実際に訪問する場合は寺院の最新案内を確認してください。
東善寺の境内には父子と家臣らの供養墓、裏山には小栗忠順の本墓があります。
処刑場所・供養墓・本墓の違いを比較
ここまでの情報を整理すると、次のようになります。
| 場所 | 所在地 | 役割 |
|---|---|---|
| 水沼河原 | 高崎市倉渕町水沼 | 1868年に小栗が処刑された場所 |
| 東善寺境内 | 高崎市倉渕町権田169 | 父子と家臣らの供養墓がある場所 |
| 東善寺裏山 | 東善寺の裏山 | 小栗忠順の本墓がある場所 |
| 観音山小栗邸跡 | 高崎市倉渕町権田 | 小栗が隠棲後に屋敷の建設を進めた場所 |
これらの場所はすべて小栗忠順に関係していますが、それぞれ歴史的な意味が異なります。
単に「小栗忠順の墓は高崎市にある」と覚えるよりも、最期を迎えた場所、供養された場所、隠棲生活を送った場所を分けることで、人物の歴史がより立体的に見えてきます。

水沼河原の処刑場所、東善寺境内の供養墓、裏山の本墓の違いを象徴的に示した画像。
実際の位置関係を示す地図ではありません。
小栗忠順は処刑前、どこで暮らしていた?
小栗忠順は、幕府の崩壊後、現在の高崎市倉渕町権田に移りました。
高崎市の説明によれば、倉渕で暮らした期間はわずか65日ほどでした。
その間、小栗は東善寺を仮住まいとし、観音山に新たな邸宅を建てようとしていました。
しかし、その屋敷は完成しませんでした。
現在、観音山小栗邸跡は高崎市指定史跡となっています。
高崎市によると、現地には屋敷の礎石が残っているほか、付近には小栗が整備に関わった用水路も残されています。
観音山の屋敷はなぜ完成しなかった?
小栗が観音山で進めていたのは、単なる住居の建設だけではありませんでした。
田畑の開発や用水路の整備も進めていました。
ところが、新政府側からは、屋敷の構えを軍事的な準備と疑う口実にされたと、高崎市は説明しています。
ただし、屋敷を建てようとしていたこと自体が、武装蜂起の計画を証明するわけではありません。
新政府側が何を疑ったのかという問題と、小栗が実際に何をしようとしていたのかという問題は、分けて考える必要があります。
建設途中だった屋敷は、小栗の処刑によって完成しないまま終わりました。
その痕跡が現在まで残っていることは、幕末の激動が一人の人物の日常生活まで変えてしまったことを示しています。
詳しい所在地と歴史は、高崎市公式「観音山小栗邸跡」で確認できます。

小栗忠順が権田村で計画した屋敷と用水路をイメージした想像復元。
実際の遺構配置を再現したものではありません。
2027年大河『逆賊の幕臣』で注目したい小栗忠順の最期
2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、小栗忠順が主人公として描かれます。
小栗は幕府の勘定奉行などを務め、横須賀製鉄所の建設を推進した人物でした。
しかし、明治維新の過程で命を落とします。
その最期を考える際、今回紹介した三つの場所は重要です。
水沼河原は、小栗が処刑された場所。
東善寺は、小栗父子や家臣らの墓が残る場所。
観音山は、小栗が新しい暮らしを始めようとしていた場所です。
この三つを知っておくと、ドラマで幕府崩壊後の小栗の人生が描かれた際にも、史実とのつながりを理解しやすくなるでしょう。
ただし、現時点でドラマの具体的な処刑場面や墓所に関する演出がどのようになるかは断定できません。
実際の史跡に残る歴史と、ドラマとして描かれる内容は区別して楽しむことが大切です。
まとめ|小栗忠順の処刑場所と墓は別の場所にある
小栗忠順が処刑されたのは、1868年閏4月6日。
場所は、現在の群馬県高崎市倉渕町水沼にある水沼河原です。
一方、墓があるのは倉渕町権田の東善寺です。
さらに東善寺では、境内の供養墓と裏山の本墓が区別されています。
2027年大河『逆賊の幕臣』では、小栗忠順という幕末の人物に注目が集まることが予想されます。
そのとき、小栗の生涯だけでなく、現在も残る終焉の地や墓を知ることは、歴史をより深く理解する手がかりになるでしょう。
参考情報・出典
高崎市公式「小栗上野介忠順終焉の地」では、小栗が処刑された日付と水沼河原の所在地を確認できます。
高崎市公式「小栗上野介忠順の墓」では、東善寺の墓が群馬県指定史跡であることを確認できます。
高崎市公式「小栗上野介の関連史跡」では、東善寺の供養墓と裏山の本墓、観音山小栗邸跡などを確認できます。
高崎市公式「観音山小栗邸跡」では、屋敷建設と用水路の歴史を確認できます。
高崎市公式「大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公 小栗上野介忠順」では、小栗と倉渕地域との関係を詳しく紹介しています。

