【豊臣兄弟!】昌山の正体は足利義昭!なぜ秀吉と和解した?出家はいつ?

【豊臣兄弟!】昌山の正体は足利義昭!なぜ秀吉と和解した?出家はいつ? 歴史
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2026年11月1日放送のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」。


公開された次回予告に、かつて織田信長と対立した足利義昭が「昌山(しょうざん)」という名前で再登場します。


演じているのは、歌舞伎俳優の尾上右近さんです。


「昌山って誰?」
「足利義昭はなぜ秀吉のもとに現れた?」
「信長に京都を追放されたのに、どうやって戻ったの?」


こうした疑問を持った人もいるのではないでしょうか。


結論からいうと、昌山は室町幕府最後の将軍・足利義昭が出家後に名乗った名前です。


義昭は1573年に織田信長によって京都を追放されましたが、その後も将軍としての権威を背景に政治活動を続けました。


そして1587年に豊臣秀吉と関係を改善して京都へ戻り、1588年に出家して「昌山道休」と名乗ります。


実はここに、今回の大河ドラマを楽しむうえで重要な年代の違いがあります。


第42回の舞台は1587年。しかし、史実で昌山道休と名乗るのは1588年なのです。


今回は昌山の正体から秀吉との和解、出家した時期、ドラマで注目したい伏線まで詳しく解説します。



豊臣兄弟!昌山の正体は足利義昭!演じる俳優は誰?

昌山(しょうざん)の正体は、室町幕府第15代将軍の足利義昭(あしかが・よしあき)です。


正式には出家後の名を「昌山道休(しょうざんどうきゅう)」といいます。


『豊臣兄弟!』では、歌舞伎俳優の尾上右近さんが足利義昭を演じています。


義昭は織田信長の力によって将軍となりながら、最終的に信長と対立して京都を追われた人物です。


しかし、その人生は「信長に追放された将軍」というだけでは終わりませんでした。


昌山の正体まとめ
  • 正体:足利義昭
  • 立場:室町幕府第15代将軍
  • 出家後の名前:昌山道休
  • ドラマの演者:尾上右近
  • 帰京:1587年/出家:1588年


第42回「北野大茶湯」の予告では、昌山が誰かに対して「決して関白殿下から離れるでない」と語る場面が紹介されています。


ここでいう関白殿下は、豊臣秀吉のことです。


かつて天下の頂点に立つ将軍だった人物が、今度は秀吉を支えるような言葉を口にする。


この変化こそ、今回の再登場で注目したい部分です。


昌山は突然現れた新人物ではなく、信長に追放された足利義昭と同一人物です。



足利義昭はなぜ織田信長に追放された?

足利義昭が将軍になったのは1568年。


織田信長の軍事的な支援を受けて京都へ入り、室町幕府第15代将軍に就任しました。


当初、義昭と信長は協力関係にありました。


しかし、次第に二人の考え方は食い違い始めます。


義昭は将軍として政治を主導しようとしましたが、実際に強力な軍事力を持っていたのは信長でした。


義昭は諸大名に働きかけ、信長に対抗する動きを強めていきます。


そして1573年、義昭は山城国の槇島城で挙兵しましたが、信長の軍勢に敗北。


京都から追放され、室町幕府は事実上終わりを迎えました。



京都を追われても義昭の政治活動は終わらなかった

ここで重要なのが、義昭は追放された後も、すぐに政治活動をやめたわけではないことです。


1576年、義昭は備後国の鞆(現在の広島県福山市)へ移ります。


そこで毛利輝元の庇護を受け、諸大名に書状を送り、信長への対抗と京都復帰を目指しました。


この時期の義昭の政治活動は「鞆幕府」と呼ばれることがあります。


京都の幕府とまったく同じ政治機構が再現されたわけではありませんが、義昭が将軍の権威を背景に影響力を保っていたことを示す呼び方です。


つまり義昭は、信長に負けても将軍としての再起を諦めていなかったのです。



【豊臣兄弟!】昌山の正体は足利義昭!なぜ秀吉と和解した?出家はいつ?

1573年、信長との対立に敗れ京都を追放された足利義昭のイメージ。画像は史実をもとにした再現です。



足利義昭はなぜ豊臣秀吉と和解した?1587年に何があった?

足利義昭の運命が大きく変わるきっかけとなったのが、1582年の本能寺の変です。


織田信長が明智光秀に討たれたことで、義昭にとって最大の敵がいなくなりました。


しかし、それでも京都への復帰は簡単ではありませんでした。


信長の死後、急速に勢力を拡大したのが羽柴秀吉だったからです。


義昭が望んでいた将軍中心の政治とは異なり、天下の実権は秀吉へ移っていきました。


ここで義昭は、秀吉と対立し続けるのではなく、協力する方向へ舵を切ります。



1587年、備後赤坂で秀吉と面会

1587年、九州出征に向かう秀吉と義昭が、備後赤坂で面会しました。


この面会が、義昭の人生を変える重要な転機となります。


義昭は秀吉に協力し、島津義久との和睦を仲介するなどの役割を果たしたとされています。


その功績もあり、義昭は同じ1587年に京都へ帰ることができました。


この流れは、日本遺産ポータルサイトの「足利義昭と鞆」でも紹介されています。


義昭と秀吉の関係が変わった流れ
  • 1573年:信長に敗れ京都を追放
  • 1576年:毛利氏を頼り鞆へ移る
  • 1582年:本能寺の変で信長が死亡
  • 1587年:秀吉と備後赤坂で面会
  • 1587年:秀吉への協力を経て京都へ帰還



秀吉はなぜ義昭を受け入れたのか?

ここからは史実を踏まえた考察です。


1587年の秀吉は、天下統一へ向けて勢力を広げる立場にありました。


一方の義昭には、将軍として長年培ってきた権威と諸大名とのつながりがありました。


秀吉にとって義昭の協力を得ることは、政治的にも外交的にも意味があったと考えられます。


特に島津氏との和睦に義昭が関与したことは、単なる名誉職の人物ではなく、実際に使える人脈を持っていたことを示しています。


そして義昭にとっても、秀吉との協力には大きな利益がありました。


長年望んでいた京都への帰還を実現できるからです。


秀吉は旧将軍の権威を活用でき、義昭は故郷である京都へ帰ることができる。


両者の利害が一致したことが、関係改善を支えた重要な理由ではないでしょうか。


ただし、厳密にいえば義昭が「秀吉のもとに戻った」という表現には注意が必要です。


義昭はもともと秀吉の家臣だったわけではありません。


義昭が戻ったのは京都であり、秀吉とは新たに協力関係を築いたという理解が正確です。


義昭と秀吉の関係改善は、敗れた将軍と新しい天下人が互いの立場を認め合う政治的な転換点だったと考えられます。



昌山と名乗ったのは1587年?1588年?ドラマとの違いに注目

今回の記事で、特に押さえておきたいのが「昌山」という名前を使い始めた時期です。


第42回「北野大茶湯」が描くのは1587年。


一方、歴史資料によれば、足利義昭が将軍職を辞して出家し、昌山道休と名乗ったのは1588年です。


帰京した年と、出家した年は異なります。


年出来事
1573年信長に敗れ京都を追放される
1576年毛利氏の庇護を受け鞆へ移る
1582年本能寺の変で信長が死亡
1587年秀吉と面会し、京都へ帰還
1588年将軍職を辞し、出家して昌山道休と名乗る
1597年足利義昭が死去


帰京と出家は別の出来事
  • 1587年:秀吉と協力関係を築く
  • 1587年:京都へ帰る
  • 1588年:将軍職を辞する
  • 1588年:出家して昌山道休と名乗る


日本遺産ポータルサイトの解説でも、この二つの年代は明確に区別されています。



なぜ1587年のドラマで「昌山」と呼ばれるのか?

ここからはドラマの構成に関する独自考察です。


第42回の予告では、足利義昭が「昌山」という名前で紹介されています。


しかし、史実では出家は翌1588年。


考えられるのは、ドラマの展開を分かりやすくするため、後に名乗る名前を先取りして使用しているという可能性です。


もう一つは、ドラマ独自の時間構成によって、義昭の帰京と出家の出来事を近い時期に描く可能性です。


今回の第42回は、北野大茶湯という1587年の大きな歴史的行事を中心に描かれます。


この場面に昌山としての義昭を登場させるなら、将軍から出家者へと立場を変えた人物として、秀吉の新しい時代を象徴させる狙いも考えられます。


かつては信長に反発し、将軍として政治の主導権を取り戻そうとした義昭。


その義昭が、今度は秀吉の側で関白への忠誠や協力を説くような言葉を口にする。


この対比は、戦国の権力構造が大きく変わったことを印象づけます。


史実では1588年に昌山道休と名乗った義昭が、ドラマでは1587年の場面に登場する。この1年の違いが、今回の見逃せないポイントです。



【豊臣兄弟!】昌山の正体は足利義昭!なぜ秀吉と和解した?出家はいつ?

1588年に将軍職を辞し、出家して昌山道休と名乗った足利義昭のイメージ。



足利義昭はその後どうなった?晩年と最期

足利義昭は出家した後も、政治や武家社会との関わりを完全に断ったわけではありません。


秀吉から一定の待遇を受け、豊臣政権のもとで晩年を過ごしました。


1592年の文禄の役では、秀吉に従って肥前名護屋まで赴いたことも知られています。


その後、1597年に大坂で亡くなりました。


義昭の人生は、幕府の将軍として始まり、信長との対立、京都追放、毛利氏の庇護、秀吉との関係改善へと大きく変化しました。


将軍の地位を失っても、人脈と権威を利用して政治の世界に関わり続けた点が特徴です。


私は、義昭を単なる「信長に敗れた最後の将軍」として見るだけでは、その人物像を十分に理解できないと思います。


最後には新しい天下人と協力し、自分の居場所を取り戻した人物でもあったのです。



まとめ|昌山は足利義昭!秀吉との和解と出家の時期が重要

『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」に登場する昌山の正体は、室町幕府最後の将軍・足利義昭です。


義昭は1573年に信長に追放され、毛利氏を頼って政治活動を続けていました。


しかし1587年、秀吉と面会して協力関係を築いたことで、京都へ帰ることができました。


そして翌1588年に将軍職を辞し、出家して昌山道休と名乗っています。


今回の重要ポイント
  • 昌山の正体は足利義昭
  • 尾上右近が演じる室町幕府最後の将軍
  • 1587年に秀吉と協力し京都へ帰還
  • 1588年に出家して昌山道休と名乗る
  • ドラマでの名前の使われ方にも注目


今回、私が特に注目したいのは、義昭が将軍としての権威にこだわる立場から、秀吉の天下を受け入れる立場へ変わっていったことです。


次回予告で昌山が口にする、関白殿下から離れないようにという言葉。


その背景には、激動の戦国時代を生き延びた義昭自身の経験があるのではないでしょうか。


信長に追われた元将軍が、秀吉の天下で何を語るのか。


この歴史を知ってから第42回を見ると、昌山の一言にも重みを感じられるはずです。



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参考情報・出典

※ドラマの今後の展開に関する記述は、2026年10月30日時点の予告情報と史実をもとにした独自考察です。



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